2013年09月08日
宜野湾市青年エイサーまつり2009
【伊佐区青年会】
北谷町と隣接している伊佐区のエイサー。そのせいか,野嵩3区ともどもおおむね北谷のエイサーに似た感じのパワフルなエイサーでした。伊佐区青年会の特徴としては,ひとつはサンラーのメーモーイがあること。前記事「チョンダラーの肖像権」で紹介したユニークなサンラー小がグランド一杯に滑稽なパフォーマンスを披露しました。また,写真のように頭より高く大太鼓を膝で持ち上げるのも見どころ。また,写真にはありませんが締太鼓の男子と手踊りの女子が交互に隊列交差を繰り返すのも独特な感じでした。
【宜野湾区青年会】
赤野エイサーの古い形態を残す宜野湾区青年会のエイサーは,宜野湾市のエイサーの中でもユニークな団体のひとつ。今の与勝あたりのエイサーのように入場口の密集隊形から次第にグランドいっぱいの円陣を形づくっていく「秋の踊り」のシーンは最初の見どころ。また,「港節」でパーランクーの男子と手踊りの女子が一対一でペアになって円陣を進みます。写真はパーランクーの男子。「港節」の掛け声とともに,しなやかに大変伸びやかにパーランクーを打ちます。2年前書いた記事で詳しく紹介しています(→ここクリック)
【中原区青年会】
大太鼓と締太鼓を基調とするエイサーにしてはゆるやかに,のびのびとした感じで太鼓を打つのが特徴的でした。また,全体の動きが整然と一体感を醸し出していたのは,やはり中原区発足の際に導入したという具志川のパーランクーエイサーの影響なのでしょうか。うるま市の赤道青年会と同様,パーランクーエイサーを締太鼓エイサーにmodifyした経験を持つ青年会です。
【大謝名区青年会】
とにかくパワフル。冒頭の伊佐区青年会からエイサーを習ったとのことです。写真のように,北谷エイサーが持つ大胆で力強い側面が大変印象深いエイサーでした。
【長田区青年会】
昭和50年ごろに独特の型を作り上げたという長田区のエイサー。宜野湾市の他地域にはない曲目もいくらか使います。写真のように足を大きく上げ力強く締太鼓をさばく動作が特徴的でした。また,写真はありませんが,ウドゥイクヮディーサーの曲では女子手踊りだけで四つ竹踊りを舞う見せ場もあります。
【嘉数区青年会】
祭り2日目のトリを飾ったのは嘉数区青年会。平成12年にエイサーを復活させ,同じ宜野湾市の十九区青年会の指導を受けて今に至るとのことでした。写真は朱の扇子を両手に広げて優雅に舞う,嘉数区の女子手踊りです。
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以上,2009年 宜野湾市青年エイサーまつりの2日目から,抜粋で紹介しました。
宜野湾市青年エイサーまつりは一昨年とあわせて2年続けて見学しました。沖縄市や北谷町の間にありながら,両地域とはまた一線を画するオリジナリティのあるエイサーが多いことを改めて認識させられました。
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03:18
│エイサー 2009年
2013年09月07日
‘エイサーよぉ〜 さ〜エイサ♪ ’【宜野湾市宜野湾区青年会】
去る2008年8月30日の土曜日,『第12回宜野湾市青年エイサーまつり』を見学してきました。このエイサー祭りは土日の2日間にわたって開催されたのですが,自分が観たのは1日目。夕方18時頃から21時頃にかけて,宜野湾市から6団体,市外から1団体の合わせて7団体の青年会エイサーが出演しました。今回は出演団体のひとつ,宜野湾区青年会について紹介します。
。(→なお,宜野湾青年エイサーまつりに出場した他団体の写真も見たい方はこちらをクリック)
宜野湾区エイサーの舞方(メーカタ)は,大太鼓・パーランクー・女子手踊りから成ります。2003年7月,東京の第1回新宿エイサーまつりにも,大里村大城青年会とともに沖縄代表として出場していました。マスゲーム並みにそろったバチさばきと隊列変化のパーランクーや優雅に扇子を翻す女子手踊りが大変印象に残っていました。
そして,5年ぶりの再会。「秋の踊り」の曲に乗せてのグランドへの入場。初っ端から驚かされました。太鼓,次いで手踊りが一人ずつ順番にグランドへと出羽,そのまま円陣になりました。新宿エイサーでは,細長い道路の演舞だったからやらなかったのか,単に自分が見逃していただけなのか,勝連のエイサーを彷彿させるような,宜野湾区青年会の円陣シーンは,今回初めて見ました。
そして,そのまましばらく「秋の踊り」に合わせての円舞が続きました。このあたり写真とともに,少し順を追って示していきましょーねー。
【宜野湾区青年会:入場から円陣】
⇒
この2つの写真は入場口を出てまもなくのものです。おそらくは最後尾あたりの男女。それぞれ一列になってグランドに進み出て,円陣になっていきます。男子は「座位→立位」を繰り返しながらパーランクーを打ち,女子は前後に体をよじりながら,少しずつ前進する様子が,左右の写真からわかっていただけると思います。
そして次の2枚はもう少し時間がたってから撮ったもの。旗頭を中心に円陣になってしばらく踊りながら隊形を次第に整えていきます(左写真)。真横から部分的に切り取ると男女ペアになっている様子がわかっていただけると思います(右写真)。
エイサーシンカが全員そろうと,円陣隊形のまま「仲順流り」へ。
七月たなばた 中ぬとぅーか・・・
夜空高くバチをあげ,しなやかなさばき技で魅せるパーランクーは大変趣があります。衣装や構成などお互いにかなり異なるけれど,このあたり使っている曲と隊形は,平敷屋や平安名あたりのエイサーと通じるものを感じました。
「仲順流り」の後も円陣での演舞がしばし続きました。
【宜野湾区青年会:後半は縦列隊形】
さて,宜野湾区エイサーの後半はガラリと縦列隊形へ。
男女とも縦並びにそれぞれ二列かそれ以上になり,互いに向き合う掛合い形式と列の交差が美しいパーランクーエイサーならではの演舞様式でした。ハツラツとした掛け声とともに,一列から二列へ,また一列へとリズミカルに隊形変化を繰り返します。
あたりが暗くなる19時過ぎから約25分の宜野湾区エイサーは大盛況でした。
見終わったばかりの自分の感想を述べれば,前半は勝連のエイサーに通じるものがあり,後半は具志川のパーランクーエイサーと通じるものがあるような感じだったなというもの。個人的には大変ユニークだと感じた宜野湾区青年会のエイサーですが,実は勝連のエイサーではなく,40年前に旧具志川市の赤野青年会から指導を受けたものだと教えていただきました。ちなみにそれ以前の宜野湾区エイサーはウスデークを主体としたエイサーだったそうで,赤野青年会からは4曲を習得してパーランクーエイサーとなり,その後,いろいろな手直しを経て今に至っているのだそうです。「秋の踊り」による入場シーンが加わったのもパーランクーエイサーに切り替わったときだそうです。
ただ,そこでひとつの疑問が浮上してきました。それは・・・
パーランクーエイサーを指導した赤野青年会には秋の踊りも入場時の円陣も見られないということ
「秋の踊り」の由来について詳細がなかなか判らなかったのですが,幸い当時のことを知っておられる赤野自治会の会長さんから話を聞くことができて疑問が解決しました。
【うるま市(旧具志川)赤野青年会のエイサー】
●2005年旧盆に出会った赤野エイサー。左からパーランクー,大太鼓,手踊り
今みられる赤野エイサーといえば,ほとんど直線的な隊形変化をベースとするパーランクーエイサーなのですが,40年前の赤野エイサーは確かに「秋の踊り」に乗せて入場と同時に円陣隊形を組んでいたとのこと。当時行われていたエイサーコンクール(全島エイサーまつりの前身)を意識して編み出された趣向だったそうです(1961年には優勝獲得)。当時,30代だった赤野青年会OBが宜野湾区に指導したのはこのエイサーだそうです。なるほど,宜野湾市で伺った先述のお話とピタッとつじつまが合います。
宜野湾区青年会はこの当時の赤野エイサーを同青年会から導入した際に「秋の踊り」の円陣隊形も一緒に赤野青年会から取り入れたということになるわけです。そして,その10年後くらいには赤野青年会ではもはや「秋の踊り」も入場の円陣隊形も行われなくなり,現在見られる赤野エイサーの型へと移行していったのですが(実際,二十数年前に赤野からエイサーを習った平安座青年会のエイサーには入場の円陣隊形はない),宜野湾区青年会では,赤野エイサーの古い型が連綿と現在にまで継承されているということなのだそうです。
本家で途絶えたものが導入先の青年会で残っているという事象,なかなか興味深いなと思いました。わずか25分ほどのエイサー祭りの一演目の中にも,40年のエイサーの歴史がしっかり刻まれているのですね。
青年会エイサーは伝統であると同時に年々進化していく生き物でもある。
何かの本で読んだような格言ですが,ホントその通りだなぁと実感させられた,宜野湾市宜野湾区青年会のエイサーでした。
●第1回新宿エイサーまつりにやって来た宜野湾区青年会(2003年7月撮影)。「エイサーよぉ〜,さ〜エイサ」の掛け声も高らかに女子が扇子を広げて舞う「港節」は戦後考案された宜野湾区オリジナルの舞踊だそうです。もともと宜野湾区のウスデークエイサーは女子がメインだったのでその名残なのか,現在の宜野湾区青年会の女子手踊りは独特の趣向で存在感を醸し出しています。
(謝辞)
このたび,宜野湾区自治会,宜野湾区青年連合会,赤野自治会の方々に多くの興味深いお話を伺いました。ご教示いただき大変ありがとうございました。
(2008年9月20日執筆)
(追伸)
次回以降,今年の旧盆に見たエイサーを順次,トピック的に何回かに分けて紹介していきます。どうぞゆたしくうねげ〜さびら。
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03:20
│旧盆エイサー2008
2013年09月06日
宜野湾市青年エイサーまつり2008
●18時をまわるころ,夕陽に染まる新城青年会のエイサーシンカ
今を去ること5年前の2008年8月30日の土曜日,『第12回宜野湾市青年エイサーまつり』を見学してきました。
このエイサーまつりは土日の2日間にわたって開催されたのですが,自分が観たのは1日目。夕方18時頃から21時頃にかけて,宜野湾市から6団体,市外から1団体の合わせて7団体の青年会エイサーが出演しました(以下に示す通り)。
新城区青年会,中原区青年会,普天間一区青年会,宜野湾区青年会,沖縄市室川青年会(招待出演),嘉数区青年会,野嵩三区青年会
北は名護から南は那覇まで,数年来,いろいろなエイサーを見学してきましたが,宜野湾市の青年会エイサーを一度にまとめて見学するのはこれが初めてでした。宜野湾市といえば,うるま市の具志川地区などのように,締太鼓を主体とするエイサーとパーランクーを主体とするエイサーの両方がみられる地域でして,当日も双方のタイプが出演しました。
パワフルな大太鼓,スピーディな締太鼓,マスゲーム並みに美しく揃ったパーランクー,趣向を凝らした手踊り,そして,一見フザけているようでその実,エイサー隊全体のケアをしているチョンダラーのパフォーマンス・・・
堪能した3時間あまりでした。出場した青年会を写真とともに順番に紹介していきます。
【新城区青年会】
1日目の青年会エイサーのトップバッターは新城(あらぐすく)区青年会。途中で,女子手踊りと締太鼓がそれぞれ単独で演舞する見せ場がありました。
【中原区青年会】
中原区は戦後に3地区が合併してできた区画だそうです。中原区の発足後,旧具志川市の青年会からパーランクーエイサーを習い,それを締太鼓エイサーに手直しして中原区の青年会エイサーが始まりました。安里屋ユンタの曲に乗せて入場,緩急のあるエイサーでした。
【普天間一区青年会】
北谷エイサーを導入したのが始まりという普天間一区青年会のエイサーは激しくテンポの速い太鼓さばきでした(左写真)。片やしなやかな女子の手踊り(右写真)はサンバの所作を取り入れているとのことでしたが,エイサー素人の自分には区別できませんでした。
【宜野湾区青年会】
1日目出場団体の中で唯一のパーランクーエイサーでした。この団体だけは,別途紹介します。
【沖縄市室川青年会】
いや〜,またお会いしましたね。毎年旧盆には沖縄市に宿泊してエイサーを追っかけ続けている身にはおなじみの沖縄市室川青年会。1日目の市外からの招待団体です。室川エイサーは2004年に初めて拝見して以来,旧盆やイベントで拝見すること5回以上。でも,今回はじめて拝見する趣向がありました。それはエイサーの前座にあるチョンダラーの舞い(左写真)。今年OBばかりで結成された「コッケイ」会による前座の舞の後,室川エイサーが勇壮に登場しました(右写真)。
【嘉数区青年会】
旗頭を先頭に颯爽と入場する嘉数区青年会のシンカ(左写真)。互いに向き合う掛合いの隊形で力強い演舞で魅せてくれました(右写真)。
【野嵩三区青年会】
1日目のトリを飾ったのは,地元野嵩の野嵩三区青年会。全島エイサーまつりにも出場しました。女子手踊り衆が披露した前座の四つ竹踊りに続いて,エイサーが登場。もとは北谷に程近い安仁屋にあったエイサーを引き継いでいるという野嵩三区のエイサーですが,前かがみ姿勢&目線高で激しくテンポ速く締め太鼓をたたくバチさばき,それに大太鼓と締太鼓・手踊りが向かい合う隊形に,北谷や嘉手納のエイサーに通じるものを感じます。
【そして,カチャーシー】
21時を回るころ,1日目の出場団体のエイサーがすべて終わり,最後は恒例のカチャーシーでお開き。旗頭が一斉に乱入するのは沖縄市でも北谷でも浦添でもどこでも同じでしょうが,ここ宜野湾では各自の旗頭によじ登る光景が毎年見られるとのこと。写真の中央あたり,2人ほどのシンカがそれぞれ普天間一区と新城区の旗頭によじ登っているのがわかるでしょうか。
以上,宜野湾市青年エイサーまつり第一夜見学の報告でした。
(KI)
(追伸)
中原区青年会のコメントに「旧具志川の締太鼓エイサーを習ったのが始まり」と書いていましたが自分の調査ミスでした。宜野湾市青年連合会(宜青連)様のご指摘で誤りが判明しましたので,該当箇所を下線部分のように修正しました。間違った情報をリリースしてしまってすみませんでした。宜青連会長様,ご指摘いただきありがとうございました。
2008年9月11日 KI
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03:19
│旧盆エイサー2008
2013年08月31日
【思い出ばなし】第49回全島エイサーまつり後編 〜本祭
●第49回全島エイサーまつりにて
前編の全島エイサー2004 前夜祭に続いて,今回は後編。
2004年9月12日(日),台風で前夜祭もろとも延期になっていた第49回全島エイサー本祭が行われました。当日,自分は青年会エイサーの演目が始まる直前に会場のコザ運動公園に到着しました。
第49回全島エイサー本祭のコラムをどうぞ。
『9月12日の全島エイサー本祭には午後4時に会場に到着しました。
昨日の前夜祭とは打って変わって、グランド席も観客席も既に観客で一杯でした。
●沖縄市嘉間良青年会
晴天の下、今年の青年エイサーのトップバッターは沖縄市嘉間良青年会。33年ぶりの出場とのこと。左右の門から入場する勇姿が見えると客席の一角で声援があがりました。また、全島エイサー初出場の沖縄市東青年会(4番目出場)にも地元ファンが駆けつけていたようで大きな歓声が上がっていました。エイサーだけでなく地域との結束こそが青年会の良い所だなと思わされました。
●金武町並里区青年会。第49回全島エイサー,晴天下での演舞(左),新宿エイサー祭り2004での女子手踊り(右)
嘉間良青年会に続いて演舞したのが金武町並里区青年会。
ここは今年、地元東京の新宿エイサー祭りにも参加していました。新宿では夜のコマ劇場前の小さな広場で所狭しと熱演していましたが、今度は広々としたグランド一杯に堂々たる演舞を見せてくれました。並里区青年会の特徴としてまず挙げられるのは、カネ打ちが居る(4人)ことです。
「カネは叩き方が少しでも違うと音がズレるので,経験を積んだ会員が担うんですよ。」
これは念仏踊りの名残だそうですが最近ではカネ打ちが居る青年会は少ないと、ベテラン会員のIさんがカネ打ちの型をしながら教えてくれました。ここのエイサーは戦後に具志川から金武に伝わったとのことでした。
「東京は人、モノ、情報が溢れていて、永住ではなく2,3年勉強や経験を積むには魅力的な場所だと思います。」
そう感想を述べてくれたのは,締太鼓で新宿遠征に参加したTさん(大学生)。本日も締太鼓でした。皆さん、自分達が演舞する側なので旧盆は他団体のエイサーを見て回るなど叶わず、この日は他団体のエイサーを十分に鑑賞したいと言っていました。
並里青年(なんざとせいねん)、諸(むる)おつかれさまでした。
●嘉手納町千原郷友会の勇猛な手踊り(左)と読谷村楚辺青年会,最後の「唐船どーい」の場面(右)
祭りはさらに盛り上がりを見せました。伝統エイサーの名門,嘉手納町千原郷友会が円陣を組んで豪快に踊りだすと観客席からどっと歓声があがりました。男性ばかり半腰になり大足を蹴上げるような荒々しい演舞とフェーシは首里士族の流儀を今に伝えるものなのでしょう。
伝統といえばもう一つ。読谷村に伝わるエイサーを披露してくれたのは読谷村楚辺青年会。千原エイサーと同様に円陣を組んでの演舞で、さらに手踊りが多いのが特徴です。
衣装などは現代エイサー化しているのかも知れないけれど、千原郷友会も楚辺青年会も戦前より前のエイサーはこんな感じだったのではと思わせる素朴でユニークなエイサーでした。
●沖縄市園田青年会
グランドに電灯が灯るころ,沖縄市エイサーの元祖ともいうべき園田青年会が「南嶽節」に合わせてテンポの早い振り、バチさばきで颯爽と登場すると、観客席から「ナンバーワン!」と叫ぶ声が上がりました。特に、こねり手を駆使した女性達の流れるような手踊りはコザに強豪多しといえども、他団体にはない大変洗練されたものだと思い見応えがありました。
●沖縄市越来青年会
その後、3団体が続きました。数年前に県立某病院で演舞を披露し多くの患者さんに感動と希望を与えたという糸満市喜屋武青年会、2年連続出場で緩急の演技が絶妙な沖縄市越来青年会、チョンダラーのコッケイ踊りとしめやかなエイサーの並立が古い念仏踊りの形を残すといわれる勝連町平安名青年会。それぞれの持ち味で見る者を魅了してくれました。
●勝連町(現,うるま市勝連)平安名青年会
全島エイサー2日間の大トリを飾ったのは、9月3日の道ジュネー大会でも迫力ある演舞で注目を集めていた沖縄市諸見里青年会です。獅子が描かれた旗と「諸見里青年会」の旗,2本の大きな旗を先頭に、大太鼓、締太鼓、男女の手踊りが織り成す堂々とした演舞と整然とした隊列が近づいてくると会場の盛り上がりも最高潮に達しました。持ち味のダイナミックな太鼓と女性手踊りが打ち鳴らす四つ竹にも一層気合いが入り、量・質ともに他の追従を許さないエイサーは祭りの最後を締めくくるのに相応しい,というより今の青年会メンバーにとっては事実上,初めての大トリとは思えないほど貫禄でした。
●沖縄市諸見里青年会
(あとがき)
諸見里青年会による最後の演舞の後、出演団体と観客交えての大カチャーシー&花火の打ち上げになりました。
今回の第49回全島エイサーまつりは台風による延期の影響で客足は少ないだろうと思ったのですが、2日間あわせて結局延べ23万人もの入場があったそうです。エイサーは多くの人々に愛されているのだなと思いました。
今回、全島エイサーを通して多くのエイサーを3日間で見てきたのですが、一言で感想を言えば、色々なエイサーがあり、どれも素晴らしいなというものでした。どこがナンバー1かとよく取り沙汰されるエイサーですが、今回、多くのエイサーを見て、まだまだエイサー素人な私にはどこもナンバー1に思えて困ってしまいました。
「どの青年会も自分達のエイサーが一番だと思って演舞しているんだよ」
沖縄市のある青年会長だった方がこう言っておられたのを覚えていますが、全島エイサーを見て、なるほどという気がしました。この時期、全島エイサーを振り返ってみて、目に見える演舞そのものよりも一番でありたい、最高のエイサーを見せたいと努力している姿こそ一番ということなのかもしれないなと考えさせられます。
翌2005年は第50回の節目。また次の夏も勇壮なエイサーを見せて欲しいなと願いつつ、レポートのペンを置きたいと思います。
今回は素晴らしいエイサーを見せていただいて大変ありがとうございました。
2004年12月 公表』
・・・以上,2004年12月に,某沖縄情報サイト上に寄稿・公開された「第49回全島エイサーまつり本祭」のコラムです。写真は当時掲載したものと異なるカットをいくつも出していますが,文章のほうは一部加筆・修正したもののほぼ当時のままです。
ところで,この沖縄全島エイサーまつりですが,当初は「全島エイサーコンクール」として始まったことはエイサーファンの間ではよく知られています。文字通り,技量や隊形,服装などでエイサーを審査,順位付けするものだったのですが,1956年に第1回全島エイサーコンクールが始まった際には,「沖縄戦での多大な戦没者を供養する」という大会スローガンも掲げていたことを最近知りました。
この前編のまえがきで「全島エイサーまつりは、旧盆の役目を果たした各地の青年達が演舞を披露する晴舞台であり、旧盆後の大きな楽しみ」的なことを,自分は6年前に書いていますが,今,1956年当時のスローガンを踏まえたうえで考えると,エイサーコンクールを引き継ぐ現在の沖縄全島エイサーまつりについても,戦没者供養という大目的は有効な(生きている)のではないかな,と思ったりするわけです。
案外,旧盆後の大きな余興と受け取られている沖縄全島エイサーまつりだけど,それだけじゃなく,実は先の大戦で亡くなった大勢の先人を慰霊している。
しばしば全島エイサーを襲う台風は涙雨。
あの楽しげな祭典も,戦没者供養も目的として始まったことを思うと身の引き締まるような思いがしなくもないですね。
●今年の第55回全島エイサーまつりに出場した恩納村恩納区青年会(写真は2006年の旧盆に恩納村で撮影されたもの)
なお,2004年の第49回全島エイサー本祭の出場団体は次のとおりです。
●2004年9月12日(日),第49回全島エイサーまつり出場団体(出場順)
琉球風車/沖縄市立室川小学校/沖縄市国際交流協会/沖縄市婦人連合会/沖縄市嘉間良青年会/金武町並里区青年会/嘉手納町千原郷友会(千原エイサー保存会)/沖縄市東青年会/読谷村楚辺青年会/琉球國祭り太鼓/沖縄市園田青年会/糸満市喜屋武青年会/沖縄市越来青年会/勝連町平安名青年会/沖縄市諸見里青年会(トリ)
そして,2010年の第55回全島エイサー本祭の出場団体は次のとおりです。
●2010年9月12日(日),第55回全島エイサーまつり出場団体(出場順)
沖縄市立室川小学校/沖縄市国際交流協会/沖縄市婦人連合会/沖縄市安慶田青年会/恩納村恩納区青年会/嘉手納町千原郷友会(千原エイサー保存会)/宜野湾市十九区青年会/琉球國祭り太鼓/沖縄市越来青年会/糸満市大里青年会/沖縄市園田青年会/うるま市平敷屋(東)青年会/沖縄市諸見里青年会(トリ)
2010年はきっと恩納村の恩納区青年会が,沖縄にはこんなエイサーもあるよとばかりにコザ運動公園に並み居る青年たちと大勢の観客を前に異彩を放ったのではないでしょうか。
2010/9/17 KI執筆
2012/9/5 島リメイク
2013/8/31 KI執筆
2013年08月30日
【思い出ばなし】第49回全島エイサーまつり前編 〜前夜祭
来たる2013年8月31日と9月1日に,第58回全島エイサーまつりが開催されますね。自分が全島エイサーまつりを観たのももう9年前のことになります。
全島エイサー開催に合わせて,当時のレポート記事を上げましょう。
まずは,前夜祭の様子から,どうぞ。
●2004年9月3日,全島エイサー前々夜を盛大に飾った道ジュネーにて,沖縄市山里青年会(左)と沖縄市安慶田青年会(右)。この夜は,翌日からの予定が全て延期になるとは夢にも思いませんでした。
思い起こせば,2004年9月4日の土曜日。午前中に会場設営がほぼ完了していた第49回全島エイサーまつりでしたが,台風18号が急に進路を変えて沖縄本島に向かってきたため,開始予定時刻直前に前夜祭ともども順延という憂き目に遭いました。
当日は,県外からこの全島エイサーまつりを観に来た大勢が台風のせいで少なからず打撃を被ったのですが,その中には自分もいました。そして,当時,同じ日に東京から沖縄市に来ていた沖縄ファンクラブのツアー御一行も・・・
本来ならば全島エイサー本祭が開催されるはずの9月5日は沖縄本島の交通機能は丸一日,麻痺状態。中央パークアベニューは根元から折れたパパイヤの木が無残な姿で散乱・・・
台風が去り,交通機能が回復した翌日,友軍だった沖縄ファンクラブ御一行は東京へと帰っていきましたが,自分の場合は,飛行機が取れなかったり,現地で発熱したり,そもそもこの旅行は半ば某沖縄情報サイト(※)の編集部からの指示によるものだったことなどいろいろとあって結局,翌週末まで,ひとり沖縄に留まっていた次第。
さて,前置きはこれくらいにして,今回は6年前に延期になった第49回全島エイサーまつりの様子をご紹介したいと思います。
『まえがき
去る2004年9月、第49回全島エイサーまつりが行われました。旧盆の道ジュネーが祖霊を送迎し村廻りする「行事」であるのに対し、全島エイサーまつりは、旧盆の役目を果たした各地の青年達が、自分達の演舞を披露する晴舞台です。
旧盆後の大きな楽しみである全島エイサーですが、参加する青年達にとっては、自分達のエイサーで県内外から訪れる観客をどれだけ魅せることができるのか、また地域の期待も担っての正念場であるとも言えるでしょう。
エイサーの季節が終わって3ヶ月経とうとしていますが、今回、9月11日に行われた全島エイサーまつりの前夜祭(第26回沖縄市青年まつり)と9月12日の全島エイサーまつり本祭を振り返ってレポートしてみたいと思います。
第49回全島エイサーまつり前夜祭(第26回沖縄市青年まつり)
●糸満市大里青年会のハントーカタミヤー(左)と太鼓(右)
9月4日に開催予定だった前夜祭(沖縄市青年まつり)ですが、台風18号のため1週間遅れの開催になりました。
16時半、開会式が終わりエイサーまつりのトップを切ったのは糸満市から招聘された大里青年会。ハントーカタミヤー(酒甕担ぎ)の座開きの舞いに続いて、エイサーが始まりました。大太鼓を先頭にパーランクーの男性達が二列に整然と並び、一糸乱れず太鼓を打つ姿は、まつりの幕開けに相応しいものでした。私は当日、風邪気味でしたが、青年達の渾身の演舞に体のだるさもいつしか忘れていました。本当に1週間待って良かったと思わせてくれました。
●沖縄市久保田青年会
続いて沖縄市から5団体が連続で出場しました。中でも久保田青年会はオリジナル曲の「久保田ニーセーター」など独特な印象で、男女とも空手を取り入れたキビキビとした動作が見事なエイサーでまつりの前半を締めくくりました。
●沖縄市安慶田青年会(左)と沖縄市松本青年会(右)
●宜野湾市我如古青年会(左)と具志頭村(現,八重瀬町)具志頭青年会(右)
あたりが暗くなる頃、沖縄市南桃原青年会が自慢のオリジナル曲「南桃原間切り」に合わせてスローテンポな中にも力のこもった演舞で後半の幕開けをしました。また、宜野湾市から招聘の我如古青年会は与那城仕込みの華麗でしめやかなパーランクーエイサーで見るものを魅了しました。この2団体が「静」ならば、後に続く青年会は「動」のエイサーかなと感じました。「仲順流れ」や「スーリ東節」が一見スローテンポな登川青年会は大太鼓の大胆なバチ裁きが激しく、具志頭青年会は本日の出場団体の中で最もハイテンポで動作が機敏でした。
●沖縄市山里青年会(左)と沖縄市胡屋青年会(右)
夜8時を回る頃、残る団体は2つ。沖縄市の胡屋青年会と山里青年会です。いずれ劣らない堂々たるエイサーでまつりの終盤を飾ってくれました。大太鼓集団を先頭に貫禄十分な演舞の胡屋青年会は、さすが昨年の本祭で大トリを務めただけのことはあると思いました。隊列をなして間近に迫ってくる青年達に、思わずシャッターを切る手が震えました。 会員が全員男性の山里青年会もまた、空手を存分に取り入れ迫力満点の男性手踊りで前夜祭の最後を飾ってくれました。
夜10時、全ての演舞が終わり、参加した青年達も観客達もそれぞれに公民館、自宅、宿泊先へ帰っていきました。私はエイサーが終ると風邪のだるさがどっと戻ってきました。この日、まつりに出なかった地元沖縄市の住吉青年会が深夜、中の町社交街で道ジュネーしていたそうですが、さすがに見に行く元気はありませんでした。
・・・以上,2004年12月に,前出の情報サイトに私が提出し,同サイト上で公開された「第49回全島エイサーまつり前夜祭」のコラムです。
このサイトを運営していた会社の確認を得たので,このたび,沖縄ファンクラブ元メンバー同士のよしみで「KIのエイサー旅日記」御中に寄贈・再掲させていただきました。ただし,写真は当時掲載したものと異なるカットもいくつか出していますが,文章のほうは当時のままです。
ところで,2004年の全島エイサー前夜祭,及び,この2010年の全島エイサー前夜祭の出場団体は次のとおりです。
●2004年9月11日(土),前夜祭出場団体(出場順)
糸満市大里青年会/沖縄市池原青年会/沖縄市松本青年会/沖縄市室川青年会/沖縄市安慶田青年会/沖縄市久保田青年会/沖縄市南桃原青年会/宜野湾市我如古青年会/沖縄市登川青年会/具志頭村具志頭青年会/沖縄市胡屋青年会/沖縄市山里青年会(トリ)・・・以上12団体
●2010年9月11日(土),前夜祭出場団体(出場順)
沖縄市知花青年会/沖縄市泡瀬第三青年会/沖縄市胡屋青年会/沖縄市東青年会/沖縄市山内青年会/沖縄市住吉青年会/沖縄市嘉間良青年会/沖縄市南桃原青年会/沖縄市松本青年会/沖縄市登川青年会/沖縄市室川青年会/沖縄市照屋青年会/沖縄市久保田青年会/沖縄市山里青年会(トリ)・・・以上14団体
次回は後編,第49回全島エイサーまつり本祭をご紹介します。
全島エイサー開催に合わせて,当時のレポート記事を上げましょう。
まずは,前夜祭の様子から,どうぞ。
【思い出ばなし】延期になった全島エイサーまつり2004 前編
●2004年9月3日,全島エイサー前々夜を盛大に飾った道ジュネーにて,沖縄市山里青年会(左)と沖縄市安慶田青年会(右)。この夜は,翌日からの予定が全て延期になるとは夢にも思いませんでした。
思い起こせば,2004年9月4日の土曜日。午前中に会場設営がほぼ完了していた第49回全島エイサーまつりでしたが,台風18号が急に進路を変えて沖縄本島に向かってきたため,開始予定時刻直前に前夜祭ともども順延という憂き目に遭いました。
当日は,県外からこの全島エイサーまつりを観に来た大勢が台風のせいで少なからず打撃を被ったのですが,その中には自分もいました。そして,当時,同じ日に東京から沖縄市に来ていた沖縄ファンクラブのツアー御一行も・・・
本来ならば全島エイサー本祭が開催されるはずの9月5日は沖縄本島の交通機能は丸一日,麻痺状態。中央パークアベニューは根元から折れたパパイヤの木が無残な姿で散乱・・・
台風が去り,交通機能が回復した翌日,友軍だった沖縄ファンクラブ御一行は東京へと帰っていきましたが,自分の場合は,飛行機が取れなかったり,現地で発熱したり,そもそもこの旅行は半ば某沖縄情報サイト(※)の編集部からの指示によるものだったことなどいろいろとあって結局,翌週末まで,ひとり沖縄に留まっていた次第。
※ディープな沖縄が定評のサイトでしたが2007/3/31に事業停止し,現在閉鎖
さて,前置きはこれくらいにして,今回は6年前に延期になった第49回全島エイサーまつりの様子をご紹介したいと思います。
『まえがき
去る2004年9月、第49回全島エイサーまつりが行われました。旧盆の道ジュネーが祖霊を送迎し村廻りする「行事」であるのに対し、全島エイサーまつりは、旧盆の役目を果たした各地の青年達が、自分達の演舞を披露する晴舞台です。
旧盆後の大きな楽しみである全島エイサーですが、参加する青年達にとっては、自分達のエイサーで県内外から訪れる観客をどれだけ魅せることができるのか、また地域の期待も担っての正念場であるとも言えるでしょう。
エイサーの季節が終わって3ヶ月経とうとしていますが、今回、9月11日に行われた全島エイサーまつりの前夜祭(第26回沖縄市青年まつり)と9月12日の全島エイサーまつり本祭を振り返ってレポートしてみたいと思います。
第49回全島エイサーまつり前夜祭(第26回沖縄市青年まつり)
●糸満市大里青年会のハントーカタミヤー(左)と太鼓(右)
9月4日に開催予定だった前夜祭(沖縄市青年まつり)ですが、台風18号のため1週間遅れの開催になりました。
16時半、開会式が終わりエイサーまつりのトップを切ったのは糸満市から招聘された大里青年会。ハントーカタミヤー(酒甕担ぎ)の座開きの舞いに続いて、エイサーが始まりました。大太鼓を先頭にパーランクーの男性達が二列に整然と並び、一糸乱れず太鼓を打つ姿は、まつりの幕開けに相応しいものでした。私は当日、風邪気味でしたが、青年達の渾身の演舞に体のだるさもいつしか忘れていました。本当に1週間待って良かったと思わせてくれました。
●沖縄市久保田青年会
続いて沖縄市から5団体が連続で出場しました。中でも久保田青年会はオリジナル曲の「久保田ニーセーター」など独特な印象で、男女とも空手を取り入れたキビキビとした動作が見事なエイサーでまつりの前半を締めくくりました。
●沖縄市安慶田青年会(左)と沖縄市松本青年会(右)
●宜野湾市我如古青年会(左)と具志頭村(現,八重瀬町)具志頭青年会(右)
あたりが暗くなる頃、沖縄市南桃原青年会が自慢のオリジナル曲「南桃原間切り」に合わせてスローテンポな中にも力のこもった演舞で後半の幕開けをしました。また、宜野湾市から招聘の我如古青年会は与那城仕込みの華麗でしめやかなパーランクーエイサーで見るものを魅了しました。この2団体が「静」ならば、後に続く青年会は「動」のエイサーかなと感じました。「仲順流れ」や「スーリ東節」が一見スローテンポな登川青年会は大太鼓の大胆なバチ裁きが激しく、具志頭青年会は本日の出場団体の中で最もハイテンポで動作が機敏でした。
●沖縄市山里青年会(左)と沖縄市胡屋青年会(右)
夜8時を回る頃、残る団体は2つ。沖縄市の胡屋青年会と山里青年会です。いずれ劣らない堂々たるエイサーでまつりの終盤を飾ってくれました。大太鼓集団を先頭に貫禄十分な演舞の胡屋青年会は、さすが昨年の本祭で大トリを務めただけのことはあると思いました。隊列をなして間近に迫ってくる青年達に、思わずシャッターを切る手が震えました。 会員が全員男性の山里青年会もまた、空手を存分に取り入れ迫力満点の男性手踊りで前夜祭の最後を飾ってくれました。
夜10時、全ての演舞が終わり、参加した青年達も観客達もそれぞれに公民館、自宅、宿泊先へ帰っていきました。私はエイサーが終ると風邪のだるさがどっと戻ってきました。この日、まつりに出なかった地元沖縄市の住吉青年会が深夜、中の町社交街で道ジュネーしていたそうですが、さすがに見に行く元気はありませんでした。
2004年12月 公表』
・・・以上,2004年12月に,前出の情報サイトに私が提出し,同サイト上で公開された「第49回全島エイサーまつり前夜祭」のコラムです。
このサイトを運営していた会社の確認を得たので,このたび,沖縄ファンクラブ元メンバー同士のよしみで「KIのエイサー旅日記」御中に寄贈・再掲させていただきました。ただし,写真は当時掲載したものと異なるカットもいくつか出していますが,文章のほうは当時のままです。
ところで,2004年の全島エイサー前夜祭,及び,この2010年の全島エイサー前夜祭の出場団体は次のとおりです。
●2004年9月11日(土),前夜祭出場団体(出場順)
糸満市大里青年会/沖縄市池原青年会/沖縄市松本青年会/沖縄市室川青年会/沖縄市安慶田青年会/沖縄市久保田青年会/沖縄市南桃原青年会/宜野湾市我如古青年会/沖縄市登川青年会/具志頭村具志頭青年会/沖縄市胡屋青年会/沖縄市山里青年会(トリ)・・・以上12団体
●2010年9月11日(土),前夜祭出場団体(出場順)
沖縄市知花青年会/沖縄市泡瀬第三青年会/沖縄市胡屋青年会/沖縄市東青年会/沖縄市山内青年会/沖縄市住吉青年会/沖縄市嘉間良青年会/沖縄市南桃原青年会/沖縄市松本青年会/沖縄市登川青年会/沖縄市室川青年会/沖縄市照屋青年会/沖縄市久保田青年会/沖縄市山里青年会(トリ)・・・以上14団体
次回は後編,第49回全島エイサーまつり本祭をご紹介します。
2010/9/16 KI執筆
2012/9/4 島大介がリメイク
2013/8/30 KIリメイク