沖縄本島の西海岸,恩納村には,中部とはまた違った趣きのエイサーが見られます。同じエイサーでも,コザをはじめ中部でよく見られるパワフルなエイサーとは一味も二味も違う,どちらかといえば,しなやかにゆったりと舞うような振りのパーランクーや手踊りが特徴のものが多いです。
去る2012年の旧盆ウークイとその翌日にかけて,見学した恩納村北部の青年会エイサーなどを写真と共にご紹介していきます。
【南恩納区青年会】
●恩納ヌルドゥンチでの南恩納区青年会,奉納エイサー(2012年9月1日)
東シナ海沿いに南北に細長い恩納村の北半部には,戦中または戦後直後の当時とほとんど変わらない,写真のようなクンジの出で立ちをしている青年会が散見されます。
殊,南恩納区青年会は祖神への奉納エイサーにおいては,大太鼓を使用せず,太鼓はすべてパーランクーのみ,そして手踊り(下写真)だけのメーカタ。古式そのままのスタイルでのエイサーがこのときだけ舞われます。
●南恩納区青年会のモーヤー(手踊り)
翌日,9月2日。御菓子御殿前でのエイサーのイベント演舞では,昨夜,パーランクーで舞を奉納した衆も,しっかり大太鼓かかえてエイサーしていました。
●御菓子御殿 恩納瀬良垣店前での南恩納区青年会エイサー(2012年9月2日)
【恩納区青年会】
●恩納ヌルドゥンチでの恩納区青年会,奉納エイサー(2012年9月1日)
お次は,隣接する地区,恩納区青年会です。もともとは同じひとつの間切だったのが,南恩納区と恩納区に分かれたのだそうですね。なので,地域の祖神を祭るヌルドゥンチは,南恩納区と恩納区の双方とも共通の場所。
ウークイの夜は,恩納区と南恩納区青年会が順番に殿内でエイサーを奉納しました。
南恩納区ともども,今に古い出で立ちを伝える恩納エイサー。50年前くらいには,恩納村の近隣の青年会は皆,このような出で立ちでエイサーをやっていたのだそうです。
上下にしなやかに振るパーランクーの動きが印象的でした。
【安富祖区青年会】
●恩納村安富祖区青年会,安富祖根屋(ニーヤー)での奉納エイサー(2012年9月1日)
恩納区の北に位置する安富祖区の青年会エイサー。こちらは先出の質素な2団体とは違って,カラフルな出で立ち。現代エイサーの標準的なスタイルであるマンサージにウッチャキは,もちろん中部でのエイサーコンクール時代以降に取り入れられたもの。同様に,南隣の瀬良垣区青年会も1960年代に,その流行のスタイルへと移行していますし,さらにその南隣の太田区青年会もまたビジュアルは流行のスタイル(下写真参照)。
●恩納村瀬良垣区青年会(左)と太田区青年会(右)。いずれも2006年旧盆に撮影
しかし,エイサーの振り付けはどの青年会もおおむね昔のまま。たとえビジュアルが昭和半ばに大きく変わっても,瀬良垣区も太田区もエイサーの振りの型は昔ながらのものを基本的に継承しているのだそうです。
なるほど,太田区のパーランクーの打ち方はゆったりとした上下動が印象的で,南に隣接する恩納区・南恩納区のパーランクーの打ち方とよく似ていました。
はい,ここで整理。ここまで紹介の西海岸沿いの各地区の位置を南から順に並べますと,以下のとおりです。
〈南側〉 南恩納区→恩納区→太田区→瀬良垣区→安富祖区 〈北側〉
【名嘉真区エイサー】
●名嘉真区エイサーのメーカタの太鼓は,現在もパーランクーだけで統一(2012年9月1日)
そして,安富祖区の北隣に位置する名嘉真区では,今ももっぱらパーランクーのみで踊るエイサーが存在します。恩納村でもっとも北に位置する名嘉真区。北隣はもう名護市域です(喜瀬区)。
恩納村北半部を南から見ていくと,南恩納。恩納両区の古く質素なビジュアルのエイサーのあと,中部でよくある見た目のエイサーが3地区ほど続いた後,最も古いビジュアルをとどめたようなエイサーに出会うという感じになります。
ここ,名嘉真区のエイサーは,斜めにいささか強く,テンポ速めにパーランクーを打ちます。同じパーランクーエイサーでも,南にある南恩納・恩納や太田区とはバチさばきの振りがまた違います。
そして,目を引くのが,男女の手踊りの掛け合い。写真のようにティサージを手に魅せてくれます。
●名嘉真区エイサーのモーヤー(2012年9月1日)
また,2012年の旧盆で見ることはありませんでしたが,ここ名嘉真区エイサーには,屋慶名エイサーのものとそっくりなメーモーイ(前座の舞)が存在することも特徴のひとつです。
↓ 自分,2007年の旧盆に実際に見たときの記事です。
2012/08/12
【沖縄市諸見里青年会】
昨年のウンケー(2007年8月25日)に出会った諸見里青年会のエイサー。ここのエイサーを初めて見たのは2004年の全島エイサーのとき。力強いエイサーだなぁ〜,と大変印象に残りました。以来,毎年,旧盆に諸見里エイサーを見続けて3年目に撮ったのが上の2枚のカット。今年の旧盆でも出会える…
【恩納村エイサーロード】
●水色がクンジスタイル,橙色がマンサージ&ウッチャキスタイル。(2012年時点)
いかがでしょうか。恩納村の北半部(というよりは東半部?)は,古いビジュアルを留めるエイサーあり,現代的なビジュアルのエイサーと
,両者が混在していて,なかなかバラエティに富んでいるわけです。
これは,コザあたりからエイサーの流行スタイルがもたらされた昭和半ば,当時(あるいは少しそれ以降)の恩納村の各青年会が流行に対してどう対応したか,各団体の対応の差異が今あるエイサーのビジュアルなどに反映されているものだと思われます。
いまひとつ,2006年の旧盆に初めて恩納村のエイサーを目の当たりにしたとき,自分が直感的に思ったこと,それは
平敷屋あたりのエイサーに似ている!
でした。もっとも,この直感はいささか軽率であり,取り扱うには注意を要するということは今ではわかっているつもりなのですが。何も知らずに与勝のパーランクーエイサーと恩納村のパーランクーエイサーを見てしまうと,両者の古い質素な出で立ちばかりに気をとられ,両者のルーツに何らかつながりがありのではと勘ぐってしまうこともあり得るからです(これは,後述のように論理的に否定できます)。
●平敷屋エイサー。(2005年9月撮影)
平敷屋エイサーは昔,名護あたりのエイサーの型を取り入れて出来上がったという文字通りの知識があったがために,実は自分も両者の関連性などと一時期,思いもしました。たとえば,名護とはいうが実はすぐ隣の恩納村ではないのか?かつては名護あたりにも今ある名嘉真や恩納区のようなエイサーがあったのでは?などというふうに。
しかし,この憶測は軽率であり大変危険でした。なぜなら,エイサーのルーツ云々に当たる戦中戦後の頃、またはそれ以前のエイサーは沖縄銃のどの地域でも,質素なクンジ衣装に鉢巻あるいはほっかむりをする出で立ちだったわけで,今あるビジュアルだけから与勝と恩納村北部の関連性を勘ぐることは全くのナンセンスそのもの。
また,恩納村と平敷屋のエイサーのルーツをそれぞれ照らし合わせれば,前者は瀬底あたりから伝わったものであり年代的には昭和前期あたり。明治の頃に名護から取り入れたという後者とは年代的にも伝播ルートから見ても合わないわけです。
多くの団体が流行のマンサージ&ウッチャキのスタイルを採用している状態の中で,たまたま恩納村北部と与勝あたりに昔ながらの出で立ちと,しなやかな上下動が特徴のパーランクーエイサーが保存されていて,
21世紀の現在の時点,沖縄本島の東海岸と西海岸,互いに反対側の地域で,あくまで偶然の結果として,似たようなエイサーが存在しているといったところでしょうか。
2013年8月21日
(今回の記事に関連のある過去記事)
・【実録】旧盆エイサー2006の詳細を報告(2006年9月30日 沖縄ファンクラブブログ初版 )
・旧盆エイサー2007,フォト短信(2008年8月10日沖縄ファンクラブブログ初版)
・もしもエイサーコンクールがなかったら・・・(2010年10月10日 KIのエイサー旅日記初版)
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色・・
やあ、KIさん、今回は恩名村のエイサーかい。
恩名のエイサーはふぜいがあるからいいね。
古いエイサーと新しいエイサーを同時に見ることができる恩名のエイサー。
エイサーの歴史がそのまま刻まれているかもね。
このシマもいつかじっくり見てみたいさ。
てことで、シマ公開長がただいま公開許可