2013年08月17日
いわきじゃんがら紀行 〜その歴史とエイサーとの関連性
じゃんがら念仏踊り(以降,じゃんがら)は,毎年,新盆(にゅうぼん)の頃,いわき市及びその近隣地域で見ることができます。江戸時代のはじめごろには,いわきの地において既に行われていたことが史料から確認できます。琉球王国で念仏を広めた袋中上人(1552〜1639年)がいわき出身であること,じゃんがらの鉦と太鼓を激しく打ち踊る様相がエイサーを彷彿させることから,沖縄のエイサーのルーツではないかと一時期,注目されました。
自分は,この8月中旬に福島県いわき市等でじゃんがらを見てきましたので,いくつか順にご紹介しながら,その歴史や沖縄エイサーとの関連について述べましょう。
(なお,本稿の内容は去る2010年8月に福島県いわき市にて見学・収集した情報に基づいて書いています)
●菩提院にて,菅波青年会によるじゃんがら奉納(左)と奉納演舞が終わり,提灯を持つ青年会長を先頭に一列になって寺院を後にするところ(右) 〜2010年8月13日撮影
いわき市平集落にある菩提院。境内には紅色のサルスベリが咲き誇っていました。1599年に袋中上人によって開かれたこの浄土宗の寺院にて,8月13日の正午過ぎに,地元の青年会による奉納じゃんがらを見学しました。
写真のように,3名の太鼓を中心に,本堂の中庭いっぱいに10名程度の踊り手が円陣を組みました。円陣のメンバーは,はじめは歌を口ずさみながら手踊りで終始激しく打つ太鼓のまわりをゆっくりグルグルと歩を進め,それが終わると全員,1箇所に立ち止まって掛け声とともに鉦をたたきステップを踏みます。
猛暑の青空の下,鉦の音がかまびすしく響き渡りました。
ド,ドドン,ドン・・・ド,ドドン,ドン・・
ひとしきり力強く太鼓がシメをして終了。約20分程度の奉納演舞が終わると,周囲からいっせいに拍手が飛び交いました。
●盆棚(左)と七夕馬(右)〜いわき暮らしの伝承郷にて(2010年8月13日撮影)
この日は新盆の1日目。各家庭では盆棚を飾り,祖先霊を迎えるための七夕馬などを藁で編んで供えます。寺院から集落へと続く路上,墓参に訪れる人をちらほらと見かけました。
さて,菩提院でじゃんがらを奉納した菅波青年会ですが,寺院での演舞を輪切りに近隣の各家庭をまわってじゃんがらをやっていたようで,静かな集落の中で太鼓と鉦の音が鳴り響いていました。
現在,じゃんがらは,沖縄のエイサーと同様に各地域の青年会もしくは保存会などが担い手になっています。十数名程度の浴衣姿の青年男女が,日中から夜にかけて地区の寺社やその年に不幸のあった各家庭を慰霊・巡回し踊る光景は,いわき地方の夏の風物詩にもなっています。また,各地域(青年会等)ごとに踊りのスタイル・使用する歌・服装などが少しずつ異なっており,じゃんがらは各地域の民俗芸能として受け継がれています。
●夜,塞神社に奉納される,長者原じゃんがら(2010年8月14日撮影)
翌8月14日には,いわき市外のじゃんがらを見学しました。
長者原じゃんがら。
いわき市の北にあたる大熊町で受け継がれてきたじゃんがらです。塞神社の夜まつりで奉納されました。こちらのじゃんがらは青年会ではなく,地元の保存会が担い手。この夜は,保存会の壮年メンバー(全員男性)が踊りました。
太鼓が4名,そして鉦打ちが6名。昨日に見た菅波青年会と大きく異なる点は,鉦打ちが終始,太鼓衆のぐるりを回り続けること。宙高く,そして地面スレスレに,交互に上下で鉦を打ち鳴らしながら軽快なステップで,激しい太鼓のまわりを回り続けます。小さな丘の上にある神社の広場を所狭しと踊るじゃんがらは夏の夜の空気とあいまって幻想的でした。
現在,じゃんがらを担う青年会(あるいは保存会)等は,いわき市内には約90団体,いわき市外の周辺地域(※1)を合わせると100を超えるだろうといわれています。上述のように団体(地域)によって詳細な違いは明らかに認められるものの,提灯を持って踊り手の先頭に立つ(青年)会長が1名,3名程度の太鼓衆,そして,鉦及び手踊り10名程度が円陣(または半円陣)で太鼓衆を取り囲んで踊る基本スタイルはだいたい共通です。
じゃんがらの起源については袋中上人起源説や祐天上人起源説など諸説ありながら,どの説も裏付け史料がなく,従来これといって断言できないといった感じでした。しかしながら,最近の資料調査によって,17世紀中頃にいわきの庶民が,当時,江戸で流行していた泡斎念仏(※2)を踊ったのが,じゃんがらの始まりだとする説が現在,有力視されています。
利安寺よりほうさい念仏始まる・・(中略)・・じゃぐわらじゃぐわらと鉦をたたき立,念仏をかまびすしく唱え候は岩城の名物也,此古実なり
1656年(明暦2年),讒言で切腹になった奉行,澤村勝為の一周忌に,磐城平藩10村あまりの民衆たちが大々的に念仏興行したのが,いわきにおける踊り念仏(ないし念仏踊り)の最も古い記録であり,これがじゃんがらのルーツであるとするのが妥当だろうと考えられています。そして,これ以降,江戸期を通じて,いわきではじゃんがらが盛んに行われ続けたことはいくつかの文献史料からも確認できるそうです。
袋中上人は1552年に生まれ,1639年に京都で88年の生涯を閉じました。そして,現在の史料からは,じゃんがらがいわきの地で始まったのはどうやら1656年であるらしい・・・
もうお気づきなのではないでしょうか。いわきで踊り念仏の類が始まったのは袋中上人の死後,17年経った1656年のこと。袋中上人が琉球に渡った際に故郷の踊り念仏(じゃんがら)を伝えたのが時代を経てエイサーへとなっていったんじゃないかと,かつて興味深い推定もなされたのですが,残念ながら,袋中上人が琉球の人々にそれを伝えたくても出来る相談ではないというわけです。
袋中上人は確かに浄土宗の高僧だけど,踊り念仏とは直接関係はなかったのではと別方面の研究からも示唆されています。少なくとも,1656年に始まった可能性が濃厚なじゃんがらと袋中上人の間には接点が生まれる余地はなかったというわけです。従って,いわき市の伝統芸能じゃんがらと沖縄の伝統エイサーは譜系的には別物であろうと今は考えられるようになっています(夢を壊すようですが・・・)。
ただ,ここで誤解して欲しくないのですが,じゃんがらとエイサーは接点はなさそうだけど,袋中上人とエイサーの接点はないわけではないということです。袋中上人が琉球滞在中に念仏の布教に努めたことは確かなので,それが何らかの形でエイサーに影響を与えている可能性は大いにあります。
いわきにおけるじゃんがらの誕生は先述しましたが,ここでその後,じゃんがらがどう変遷していったかを簡単にご紹介しましょう。江戸時代を通じてじゃんがらはおおむね盛んに行われ(その時々の為政者による禁圧などはあったようですが),お盆行事として定着していたようです。現在,十数名で踊られるじゃんがらですが,江戸時代にははるかに大人数で行われていたそうです。現在は踊り手は浴衣装束と言った質素な出で立ちですが,江戸期は泰平の世が長引くにつれて奢侈になり,太鼓や鉦に続いて,大勢の民衆が,このときとばかりに奇抜でド派手な格好をして渦型に行列をなして踊り狂う,さながら仮装行列のようなものだったとか。
やがて江戸幕府が倒れ,明治政府が樹立されるとその享楽的な面も災いしてじゃんがら禁止令(明治6年)が出され,一時期衰退しました。それでも明治のうちにじゃんがらは再び踊られるようになりましたが,復活したじゃんがらはもはや仮装行列まがいのものではなく,十数名の少人数で質素な服装で踊られるものになり,現在へと至っているのだそうです。
質素ながらも真骨迫る妙技な太鼓とリズム感あふれる鉦の音色は,エイサーと同様に見る者を魅了します。
さて,戦後には地域の青年会などが主な担い手となったじゃんがら。沖縄の青年会エイサーと違って,明治の後半に復活した当時のスタイルからあまり変化しなかったのですが,それでも多少の紆余曲折はあったみたいです。
●毎年8月15日の夜に開催される遠野町じゃんがら大会にて。根岸青年会(左)と下根本青年会(右)
この2010年8月7日,いわき駅前の広場で「いわき市青年じゃんがら大会」が行われ,市内の17団体が出場したそうです。毎年,新盆(にゅうぼん)近づく月遅れの七夕の日にいわき市平町の青年連絡協議会主催で行われてきた,じゃんがらの一大イベントも今年で40回目とのこと。
そして,奇しくも始まった当初は,じゃんがらコンクールだったとか。各地域のじゃんがらに順位を付け競い合うコンクール形式は初回から何年間か続いたらしいですが,やがて,地域独自の伝統芸能に順位付けとはいかがなものかという反論が強まって,現在の順位付けしない大会になったそうです。
このあたり,沖縄全島エイサーまつりが辿ってきた経緯とよく似ていますね。
ちなみにこの「いわき市青年じゃんがら大会」だけではなく,現在,内陸の遠野町や海沿いのララみゅう(いわき観光物産センター)前でも,じゃんがら大会が行われています。
全島エイサーコンクールと前後して沖縄エイサーで起きたようなドラスティックな変化は,いわきじゃんがらの場合には起きなかったけれど,じゃんがらコンクール時代に振り付けなどに流行の要素を取り入れたり,多少の変化は確かに起きたそうです。
●那覇市国場の念仏エイサー。400年変わらない原初エイサーのスタイルをとどめているとされています。
いわきのじゃんがらと沖縄のエイサーの間には,一昔前に推定されていたような繋がりは残念ながらなさそうです。古琉球の末期には,琉球王国にもヤマトの文物・習慣・宗教が少なからず浸透していました。いつ,だれがエイサー(or エイサーの原型になった芸能)を創始したとかいうものではなく,そういったヤマト渡来の多くのモノの中にあった浄土宗系の念仏の類が,琉球古来のモーアシビーや集団舞踊・集団祭祀と結びつき,次第に融合し合って徐々にエイサーのようなものが形成されていったのが実際のところだろうと考えられてきています。その浄土宗系の念仏というのは,琉球国由来記に「是念仏ノ始ナリ」と記された袋中上人による念仏布教と考えてもほぼ間違いはないだろうとされています。袋中上人がエイサー(あるいは原型となる踊り)を始めたわけではないけれど,上人が琉球に伝えた念仏(お経)が,エイサー誕生の一因になった可能性は大いにあるというのが正直なところです。
●神奈川県藤沢市,遊行寺の踊念仏
見渡してみれば,日本列島の各地には踊り念仏やその系統を引く芸能が多々あふれています。
西馬音内盆踊り(秋田),じゃんがら(福島・茨城),葛西念仏(東京),遊行踊念仏(長野・神奈川),ヒーヤイ踊り(静岡),六斎念仏(京都),阿波踊り(徳島),滝宮の念仏踊(香川),エイサー(沖縄),アンガマ(沖縄)
思いつくまま適当に挙げたけれど,これら以外にもたくさんあるはず。それらは多種多様だけど,いずれも歴史をさかのぼれば,時宗開祖の一遍上人(13世紀)ないし空也上人(10世紀)にまで何らかの形でたどれるわけで,根っこは一緒。
エイサーとじゃんがらはお互い兄弟ではないけれど,日本に広く分布する,踊り念仏(及び念仏踊り)ファミリーの仲間であることは確かでしょうね。
●いわき銘菓「じゃんがら」
(注釈)
※1. いわき市外では,茨城県北茨城市と福島県大熊町・双葉町において、じゃんがらが行われている。
※2. 17世紀はじめ,常陸の僧,泡斎が江戸市中で始めた踊り念仏で,太鼓と鉦を鳴らして踊り狂いながら托鉢したとのこと。
(参考)
・いわき暮らしの伝承郷の研究紀要類
・宜保榮治郎著 エイサー■沖縄の盆踊り 那覇出版社 1997/11/19
・・色不異空 空不異色 色即是空 空即是色・・
やあ、KIさん、
前回は、旧盆の由来の話を再版リポートありがとう。
このいわきじゃんがらの再版リポートも前回も、いよいよ、今年も旧盆エイサーというときに、最適の話題だね。
これは、大震災の前の年の夏に取材したものなのだね。
東北はだいぶ復興が進んでいるようが、物も心もまだまだ傷跡が深いことだろう。
一日でも早く、少しでも、地元が元気になっていくといいのにな。
いわきじゃんがら、ひびけ、弔いと復興の祈りの念仏太鼓
自分は,この8月中旬に福島県いわき市等でじゃんがらを見てきましたので,いくつか順にご紹介しながら,その歴史や沖縄エイサーとの関連について述べましょう。
(なお,本稿の内容は去る2010年8月に福島県いわき市にて見学・収集した情報に基づいて書いています)
●菩提院にて,菅波青年会によるじゃんがら奉納(左)と奉納演舞が終わり,提灯を持つ青年会長を先頭に一列になって寺院を後にするところ(右) 〜2010年8月13日撮影
いわき市平集落にある菩提院。境内には紅色のサルスベリが咲き誇っていました。1599年に袋中上人によって開かれたこの浄土宗の寺院にて,8月13日の正午過ぎに,地元の青年会による奉納じゃんがらを見学しました。
写真のように,3名の太鼓を中心に,本堂の中庭いっぱいに10名程度の踊り手が円陣を組みました。円陣のメンバーは,はじめは歌を口ずさみながら手踊りで終始激しく打つ太鼓のまわりをゆっくりグルグルと歩を進め,それが終わると全員,1箇所に立ち止まって掛け声とともに鉦をたたきステップを踏みます。
猛暑の青空の下,鉦の音がかまびすしく響き渡りました。
ド,ドドン,ドン・・・ド,ドドン,ドン・・
ひとしきり力強く太鼓がシメをして終了。約20分程度の奉納演舞が終わると,周囲からいっせいに拍手が飛び交いました。
●盆棚(左)と七夕馬(右)〜いわき暮らしの伝承郷にて(2010年8月13日撮影)
この日は新盆の1日目。各家庭では盆棚を飾り,祖先霊を迎えるための七夕馬などを藁で編んで供えます。寺院から集落へと続く路上,墓参に訪れる人をちらほらと見かけました。
さて,菩提院でじゃんがらを奉納した菅波青年会ですが,寺院での演舞を輪切りに近隣の各家庭をまわってじゃんがらをやっていたようで,静かな集落の中で太鼓と鉦の音が鳴り響いていました。
現在,じゃんがらは,沖縄のエイサーと同様に各地域の青年会もしくは保存会などが担い手になっています。十数名程度の浴衣姿の青年男女が,日中から夜にかけて地区の寺社やその年に不幸のあった各家庭を慰霊・巡回し踊る光景は,いわき地方の夏の風物詩にもなっています。また,各地域(青年会等)ごとに踊りのスタイル・使用する歌・服装などが少しずつ異なっており,じゃんがらは各地域の民俗芸能として受け継がれています。
●夜,塞神社に奉納される,長者原じゃんがら(2010年8月14日撮影)
翌8月14日には,いわき市外のじゃんがらを見学しました。
長者原じゃんがら。
いわき市の北にあたる大熊町で受け継がれてきたじゃんがらです。塞神社の夜まつりで奉納されました。こちらのじゃんがらは青年会ではなく,地元の保存会が担い手。この夜は,保存会の壮年メンバー(全員男性)が踊りました。
太鼓が4名,そして鉦打ちが6名。昨日に見た菅波青年会と大きく異なる点は,鉦打ちが終始,太鼓衆のぐるりを回り続けること。宙高く,そして地面スレスレに,交互に上下で鉦を打ち鳴らしながら軽快なステップで,激しい太鼓のまわりを回り続けます。小さな丘の上にある神社の広場を所狭しと踊るじゃんがらは夏の夜の空気とあいまって幻想的でした。
現在,じゃんがらを担う青年会(あるいは保存会)等は,いわき市内には約90団体,いわき市外の周辺地域(※1)を合わせると100を超えるだろうといわれています。上述のように団体(地域)によって詳細な違いは明らかに認められるものの,提灯を持って踊り手の先頭に立つ(青年)会長が1名,3名程度の太鼓衆,そして,鉦及び手踊り10名程度が円陣(または半円陣)で太鼓衆を取り囲んで踊る基本スタイルはだいたい共通です。
じゃんがらの起源については袋中上人起源説や祐天上人起源説など諸説ありながら,どの説も裏付け史料がなく,従来これといって断言できないといった感じでした。しかしながら,最近の資料調査によって,17世紀中頃にいわきの庶民が,当時,江戸で流行していた泡斎念仏(※2)を踊ったのが,じゃんがらの始まりだとする説が現在,有力視されています。
利安寺よりほうさい念仏始まる・・(中略)・・じゃぐわらじゃぐわらと鉦をたたき立,念仏をかまびすしく唱え候は岩城の名物也,此古実なり
〜『旧平藩家老職・穂高家御内用故実書』より
1656年(明暦2年),讒言で切腹になった奉行,澤村勝為の一周忌に,磐城平藩10村あまりの民衆たちが大々的に念仏興行したのが,いわきにおける踊り念仏(ないし念仏踊り)の最も古い記録であり,これがじゃんがらのルーツであるとするのが妥当だろうと考えられています。そして,これ以降,江戸期を通じて,いわきではじゃんがらが盛んに行われ続けたことはいくつかの文献史料からも確認できるそうです。
袋中上人は1552年に生まれ,1639年に京都で88年の生涯を閉じました。そして,現在の史料からは,じゃんがらがいわきの地で始まったのはどうやら1656年であるらしい・・・
もうお気づきなのではないでしょうか。いわきで踊り念仏の類が始まったのは袋中上人の死後,17年経った1656年のこと。袋中上人が琉球に渡った際に故郷の踊り念仏(じゃんがら)を伝えたのが時代を経てエイサーへとなっていったんじゃないかと,かつて興味深い推定もなされたのですが,残念ながら,袋中上人が琉球の人々にそれを伝えたくても出来る相談ではないというわけです。
袋中上人は確かに浄土宗の高僧だけど,踊り念仏とは直接関係はなかったのではと別方面の研究からも示唆されています。少なくとも,1656年に始まった可能性が濃厚なじゃんがらと袋中上人の間には接点が生まれる余地はなかったというわけです。従って,いわき市の伝統芸能じゃんがらと沖縄の伝統エイサーは譜系的には別物であろうと今は考えられるようになっています(夢を壊すようですが・・・)。
ただ,ここで誤解して欲しくないのですが,じゃんがらとエイサーは接点はなさそうだけど,袋中上人とエイサーの接点はないわけではないということです。袋中上人が琉球滞在中に念仏の布教に努めたことは確かなので,それが何らかの形でエイサーに影響を与えている可能性は大いにあります。
いわきにおけるじゃんがらの誕生は先述しましたが,ここでその後,じゃんがらがどう変遷していったかを簡単にご紹介しましょう。江戸時代を通じてじゃんがらはおおむね盛んに行われ(その時々の為政者による禁圧などはあったようですが),お盆行事として定着していたようです。現在,十数名で踊られるじゃんがらですが,江戸時代にははるかに大人数で行われていたそうです。現在は踊り手は浴衣装束と言った質素な出で立ちですが,江戸期は泰平の世が長引くにつれて奢侈になり,太鼓や鉦に続いて,大勢の民衆が,このときとばかりに奇抜でド派手な格好をして渦型に行列をなして踊り狂う,さながら仮装行列のようなものだったとか。
やがて江戸幕府が倒れ,明治政府が樹立されるとその享楽的な面も災いしてじゃんがら禁止令(明治6年)が出され,一時期衰退しました。それでも明治のうちにじゃんがらは再び踊られるようになりましたが,復活したじゃんがらはもはや仮装行列まがいのものではなく,十数名の少人数で質素な服装で踊られるものになり,現在へと至っているのだそうです。
質素ながらも真骨迫る妙技な太鼓とリズム感あふれる鉦の音色は,エイサーと同様に見る者を魅了します。
さて,戦後には地域の青年会などが主な担い手となったじゃんがら。沖縄の青年会エイサーと違って,明治の後半に復活した当時のスタイルからあまり変化しなかったのですが,それでも多少の紆余曲折はあったみたいです。
●毎年8月15日の夜に開催される遠野町じゃんがら大会にて。根岸青年会(左)と下根本青年会(右)
この2010年8月7日,いわき駅前の広場で「いわき市青年じゃんがら大会」が行われ,市内の17団体が出場したそうです。毎年,新盆(にゅうぼん)近づく月遅れの七夕の日にいわき市平町の青年連絡協議会主催で行われてきた,じゃんがらの一大イベントも今年で40回目とのこと。
そして,奇しくも始まった当初は,じゃんがらコンクールだったとか。各地域のじゃんがらに順位を付け競い合うコンクール形式は初回から何年間か続いたらしいですが,やがて,地域独自の伝統芸能に順位付けとはいかがなものかという反論が強まって,現在の順位付けしない大会になったそうです。
このあたり,沖縄全島エイサーまつりが辿ってきた経緯とよく似ていますね。
ちなみにこの「いわき市青年じゃんがら大会」だけではなく,現在,内陸の遠野町や海沿いのララみゅう(いわき観光物産センター)前でも,じゃんがら大会が行われています。
全島エイサーコンクールと前後して沖縄エイサーで起きたようなドラスティックな変化は,いわきじゃんがらの場合には起きなかったけれど,じゃんがらコンクール時代に振り付けなどに流行の要素を取り入れたり,多少の変化は確かに起きたそうです。
●那覇市国場の念仏エイサー。400年変わらない原初エイサーのスタイルをとどめているとされています。
いわきのじゃんがらと沖縄のエイサーの間には,一昔前に推定されていたような繋がりは残念ながらなさそうです。古琉球の末期には,琉球王国にもヤマトの文物・習慣・宗教が少なからず浸透していました。いつ,だれがエイサー(or エイサーの原型になった芸能)を創始したとかいうものではなく,そういったヤマト渡来の多くのモノの中にあった浄土宗系の念仏の類が,琉球古来のモーアシビーや集団舞踊・集団祭祀と結びつき,次第に融合し合って徐々にエイサーのようなものが形成されていったのが実際のところだろうと考えられてきています。その浄土宗系の念仏というのは,琉球国由来記に「是念仏ノ始ナリ」と記された袋中上人による念仏布教と考えてもほぼ間違いはないだろうとされています。袋中上人がエイサー(あるいは原型となる踊り)を始めたわけではないけれど,上人が琉球に伝えた念仏(お経)が,エイサー誕生の一因になった可能性は大いにあるというのが正直なところです。
●神奈川県藤沢市,遊行寺の踊念仏
見渡してみれば,日本列島の各地には踊り念仏やその系統を引く芸能が多々あふれています。
西馬音内盆踊り(秋田),じゃんがら(福島・茨城),葛西念仏(東京),遊行踊念仏(長野・神奈川),ヒーヤイ踊り(静岡),六斎念仏(京都),阿波踊り(徳島),滝宮の念仏踊(香川),エイサー(沖縄),アンガマ(沖縄)
思いつくまま適当に挙げたけれど,これら以外にもたくさんあるはず。それらは多種多様だけど,いずれも歴史をさかのぼれば,時宗開祖の一遍上人(13世紀)ないし空也上人(10世紀)にまで何らかの形でたどれるわけで,根っこは一緒。
エイサーとじゃんがらはお互い兄弟ではないけれど,日本に広く分布する,踊り念仏(及び念仏踊り)ファミリーの仲間であることは確かでしょうね。
●いわき銘菓「じゃんがら」
2010年9月22日 初版 by KI
2013年8月15日 リメイク版 by KI
(注釈)
※1. いわき市外では,茨城県北茨城市と福島県大熊町・双葉町において、じゃんがらが行われている。
※2. 17世紀はじめ,常陸の僧,泡斎が江戸市中で始めた踊り念仏で,太鼓と鉦を鳴らして踊り狂いながら托鉢したとのこと。
(参考)
・いわき暮らしの伝承郷の研究紀要類
・宜保榮治郎著 エイサー■沖縄の盆踊り 那覇出版社 1997/11/19
・・色不異空 空不異色 色即是空 空即是色・・
やあ、KIさん、
前回は、旧盆の由来の話を再版リポートありがとう。
このいわきじゃんがらの再版リポートも前回も、いよいよ、今年も旧盆エイサーというときに、最適の話題だね。
これは、大震災の前の年の夏に取材したものなのだね。
東北はだいぶ復興が進んでいるようが、物も心もまだまだ傷跡が深いことだろう。
一日でも早く、少しでも、地元が元気になっていくといいのにな。
いわきじゃんがら、ひびけ、弔いと復興の祈りの念仏太鼓
Posted by まほろば旅日記編集部 at 03:43
│エイサーなど2010