2011年01月27日
もしもエイサーコンクールがなかったら・・・
●恩納村南恩納区青年会。ウガンジュ前で古式にて太鼓はパーランクーのみでエイサーを奉納しました
沖縄県では多くの青年会や保存会等によって担われているエイサーですが,今では,本来の旧盆のみならず,県内では全島エイサーや各市町村のエイサーまつり等で旧盆の道ジュネー(シママーイ)でのものとほぼ同じエイサー演舞を,それも一度に多数を見ることができます。
そして,民俗行事としてもまつりとしても全県的にさかんになったエイサーは県外にも飛び火し,様々なエイサー団体やエイサー風太鼓団体が本土の各地で見られるほど,全国的にエイサー熱が広がっているのが現状だと言っても過言ではないと思います。
自分たちは,ある意味,それらを当たり前のものとして,毎年,旧盆を中心とした夏場(沖縄でいう真南風の季節)には見学,鑑賞しているわけだけれど,最近,ふと思うのが
↓↓↓これ
もしも沖縄のエイサーコンクールが行われていなかったら,エイサーはどうなっていたのだろう?
現在のように見栄えよくカラフルな衣装類と隊列・動作もいろいろ趣向を凝らしたエイサーが出来上がってきたのは,沖縄全島エイサーコンクール(1956〜1976年)によるところが大きいことは,沖縄エイサーに関する書籍では必ず言及されています。
互いに競い合い,大勢の観客の前で見せるようになったため,元来ごく質素な着物(クンジや浴衣)で踊っていたものが人目を惹きつけるようにとビジュアル的なものになり,とりわけ沖縄市の園田青年会が始めたといわれる鳩間スガイが大流行したり,太鼓の数が大幅に増えていきました。前の記事でも触れたように,女子の服装なども次第にファッショナブルなものになっていきました。
エイサーにとっては一大転換期だったのは間違いないだろうし,その後,この洗練されたエイサーが県外にも大きく波及し,現在へと至るというわけでしょう。
現代エイサーの土台だったともいうべきエイサーコンクール。
歴史に「もしも」は禁物だろうけれど,20世紀後半に20年あまり続いた石川やコザのエイサーコンクールがもしも全く行われることがなかったとすれば,きっとエイサーの状況は大きく異なるものになっていたんじゃないでしょうか。具体的にどういう状態が考えられるのか?以下はあくまで自分個人の見解(推測)ですが,箇条書きしてみました。
1.現在,エイサーといえば真っ先にイメージされるマンサージ&ウッチャキといった基本スタイル(鳩間スガイ)は存在しなかった。
2.大衆に披露するという認識はなく,より宗教性が強い行事と認識された。
3.沖縄県外に大々的に波及することもなかった。
4.エイサー風創作太鼓芸能というジャンルも生まれなかった。
まず1に関していえば,エイサーコンクールがなければビジュアル面の工夫も必要がないため,戦前以来のクンジ等をベースとする質素なスタイルがずっと続いたのではないでしょうか。そして,太鼓の数もずっと少なくて,広場では少人数の太鼓を大勢の手踊りが取り囲んで踊り,移動するときにはやはり少数の太鼓のあとに大勢の手踊りが列をなして追従するといった具合です。
そして,エイサーまつりという大規模イベントもおそらく,無いかずっと少なく,青年会等のエイサー活動に占める旧盆本番のウェイトがずっと高かったはずです。2の裏返しになりますが,地域以外で自分エイサーを見せるような機会も皆無とはいかなくても非常に少なく,地域内での祖先霊供養という本来の厳かな側面がもっともっとずっと身近にクローズアップされたんじゃないでしょうか。そう,シヌグやウスデークなどの現状と同じような感じでエイサーは存在し続けたのではないでしょうか。
●名護市世富慶青年会の手踊りエイサー。踊りも衣装も戦前からのスタイル。名護市では城(ぐすく)青年会も手踊りエイサーを行っています。
・・・とまあ,文章であれこれと書きましたが,要するに「エイサーコンクールがなければ戦前以前のエイサーのスタイルがもっと残り続けた可能性が高い」ということです。
そして3と4に関してですが,このように宗教性と伝統が強烈なエイサーであったならば,ショーや娯楽とは無縁な存在ともいえるので,他地域や県外で「楽しそうだから俺たちもやってみようぜ!」ということにもなり得ないというわけです
ところで,エイサーコンクールが無かった場合のエイサーって見た目はどんな感じになるの?
先述のように戦前のエイサーからさほど変わることなかったのではと推定できるので,戦前のエイサーの写真があればそれを見て「ああ,これに近い感じなのか」と納得するか,当時を見て知っているオジィやオバァに頼んで絵を書いてもらうとか・・・或いは,昔からほとんどスタイルを変えていないエイサーを見学するのが一番いいかもしれませんね。少数ながら沖縄本島北部をはじめそういうエイサーが今も旧盆時期に踊られています。この記事内にある写真はいずれもその類のエイサーの写真です。今となっては古き良きエイサー。沖縄でも数限られていますが,エイサーコンクールがなかったら,この手のエイサーがもっとたくさん旧盆の沖縄各地でごく普通に見られたかもしれませんね。
●恩納村名嘉真エイサー。パーランクーと男女手踊り(左),そしてエイサーの前には必ずメーモーイ(右)。メーカタの太鼓はパーランクーのみ(大太鼓は地面に据え置いて年輩の指導者(OB?)が打つ)。ここのエイサーは昔からのスタイルをほぼそのまま継承しているそうです。
●恩納村恩納区青年会。同じ恩納村の名嘉真区や南恩納区とともに伝統的なクンジ衣装です。現在は左写真のような大太鼓がありますが,かつては大太鼓はなく,太鼓はパーランクーのみだったとか。
●石川エンサー。クンジ衣装に一種独特なピンクの被り物。締太鼓,鉦,手踊りの構成。最近復活した石川エンサーは200年以上前から存在していた。石川のエイサーの特徴とも言える鉦打ちは戦前には,具志川やコザなどもっと多くの地域でも見られたとか
●うるま市平敷屋(東)青年会(左)と平安名青年会(中・右)。僧侶のようなクンジ衣装は,伝統のスタイルにこだわりつづけて継承され続けた
まあ,今回,とりあえずエイサーコンクールがなかったらどうなったのだろうかということを自分なりに少し推測したわけですけれども,「歴史に‘もしも’はない」というのはその通りだとも思います。
聞いた話ですが,戦前の質素なエイサーは今以上に腰をグッと落として力強く足を頭上近くまで振り上げるなど,空手等のキビキビとした手足裁きが迫真だったそうな。出で立ちは質素だけれど,その分,現在の青年会エイサーに勝るとも劣らない技芸力を醸し出していたと聞いたことがあります。
つまり,旧盆エイサーにはもともとから見る人を惹きつける迫力なり,魅力は十分備わっていたということですね。だとすれば,古来芸能に堪能だった沖縄の人々が「一堂に各地のエイサーを集めてみよう」とか「芸能の技の素晴らしさを競い合おう(※)」とか遅かれ早かれ思いつかないはずがないし,「エイサーにいろいろな趣向を織り交ぜてみよう」と考えないはずがない。
沖縄全島エイサーコンクール及び,それを経てのエイサーの変遷は起こるべくして起こったことなのかもしれないですね。
●浜比嘉島の比嘉エイサー。パーランクー(左)と手踊り(右)。こちらのエイサーも戦前よりずっと以前からのスタイル。比嘉エイサーは,古いスタイルを継承する他の団体が概して質素なのに対して,写真のような組み踊りのサムレーのような衣装で派手な感じ
●屋慶名青年会。太鼓(左)とハントーカタミヤー(右)。ここはイベントのときだけ大太鼓を使う。すでに戦前のうちに比嘉エイサーのスタイルを導入していたとか
これから将来,沖縄のエイサーはどうなっていくのかは全くわかりませんが,たとえ踊りの型やビジュアルが変化しても,エイサーの魂ともいうべき「地域と結びつき旧盆に祖霊を供養する」という本分とともに,沖縄のエイサーは沖縄のエイサーとしてずっと存続していくのでしょう。
p.s.
本年,エイサーについて話すべきことはこれで全て話しきったかなといった感じです。Shimaさんの今年の八重瀬町青年エイサー祭りのレポートをはじめ,他の執筆メンバーの方々のレポートや話題が今後いろいろとあるかと思いますので引き続き,このエイサー旅日記をよろしくお願い申し上げます。
今年もどうもありがとうございました。
(註)
※とはいえ,結局は伝統に順位付けはナンセンスということで1976年を最後にコンクール形式は廃止になったのはご存知のとおりです。
現在のように見栄えよくカラフルな衣装類と隊列・動作もいろいろ趣向を凝らしたエイサーが出来上がってきたのは,沖縄全島エイサーコンクール(1956〜1976年)によるところが大きいことは,沖縄エイサーに関する書籍では必ず言及されています。
互いに競い合い,大勢の観客の前で見せるようになったため,元来ごく質素な着物(クンジや浴衣)で踊っていたものが人目を惹きつけるようにとビジュアル的なものになり,とりわけ沖縄市の園田青年会が始めたといわれる鳩間スガイが大流行したり,太鼓の数が大幅に増えていきました。前の記事でも触れたように,女子の服装なども次第にファッショナブルなものになっていきました。
エイサーにとっては一大転換期だったのは間違いないだろうし,その後,この洗練されたエイサーが県外にも大きく波及し,現在へと至るというわけでしょう。
現代エイサーの土台だったともいうべきエイサーコンクール。
歴史に「もしも」は禁物だろうけれど,20世紀後半に20年あまり続いた石川やコザのエイサーコンクールがもしも全く行われることがなかったとすれば,きっとエイサーの状況は大きく異なるものになっていたんじゃないでしょうか。具体的にどういう状態が考えられるのか?以下はあくまで自分個人の見解(推測)ですが,箇条書きしてみました。
1.現在,エイサーといえば真っ先にイメージされるマンサージ&ウッチャキといった基本スタイル(鳩間スガイ)は存在しなかった。
2.大衆に披露するという認識はなく,より宗教性が強い行事と認識された。
3.沖縄県外に大々的に波及することもなかった。
4.エイサー風創作太鼓芸能というジャンルも生まれなかった。
まず1に関していえば,エイサーコンクールがなければビジュアル面の工夫も必要がないため,戦前以来のクンジ等をベースとする質素なスタイルがずっと続いたのではないでしょうか。そして,太鼓の数もずっと少なくて,広場では少人数の太鼓を大勢の手踊りが取り囲んで踊り,移動するときにはやはり少数の太鼓のあとに大勢の手踊りが列をなして追従するといった具合です。
そして,エイサーまつりという大規模イベントもおそらく,無いかずっと少なく,青年会等のエイサー活動に占める旧盆本番のウェイトがずっと高かったはずです。2の裏返しになりますが,地域以外で自分エイサーを見せるような機会も皆無とはいかなくても非常に少なく,地域内での祖先霊供養という本来の厳かな側面がもっともっとずっと身近にクローズアップされたんじゃないでしょうか。そう,シヌグやウスデークなどの現状と同じような感じでエイサーは存在し続けたのではないでしょうか。
●名護市世富慶青年会の手踊りエイサー。踊りも衣装も戦前からのスタイル。名護市では城(ぐすく)青年会も手踊りエイサーを行っています。
・・・とまあ,文章であれこれと書きましたが,要するに「エイサーコンクールがなければ戦前以前のエイサーのスタイルがもっと残り続けた可能性が高い」ということです。
そして3と4に関してですが,このように宗教性と伝統が強烈なエイサーであったならば,ショーや娯楽とは無縁な存在ともいえるので,他地域や県外で「楽しそうだから俺たちもやってみようぜ!」ということにもなり得ないというわけです
ところで,エイサーコンクールが無かった場合のエイサーって見た目はどんな感じになるの?
先述のように戦前のエイサーからさほど変わることなかったのではと推定できるので,戦前のエイサーの写真があればそれを見て「ああ,これに近い感じなのか」と納得するか,当時を見て知っているオジィやオバァに頼んで絵を書いてもらうとか・・・或いは,昔からほとんどスタイルを変えていないエイサーを見学するのが一番いいかもしれませんね。少数ながら沖縄本島北部をはじめそういうエイサーが今も旧盆時期に踊られています。この記事内にある写真はいずれもその類のエイサーの写真です。今となっては古き良きエイサー。沖縄でも数限られていますが,エイサーコンクールがなかったら,この手のエイサーがもっとたくさん旧盆の沖縄各地でごく普通に見られたかもしれませんね。
●恩納村名嘉真エイサー。パーランクーと男女手踊り(左),そしてエイサーの前には必ずメーモーイ(右)。メーカタの太鼓はパーランクーのみ(大太鼓は地面に据え置いて年輩の指導者(OB?)が打つ)。ここのエイサーは昔からのスタイルをほぼそのまま継承しているそうです。
●恩納村恩納区青年会。同じ恩納村の名嘉真区や南恩納区とともに伝統的なクンジ衣装です。現在は左写真のような大太鼓がありますが,かつては大太鼓はなく,太鼓はパーランクーのみだったとか。
●石川エンサー。クンジ衣装に一種独特なピンクの被り物。締太鼓,鉦,手踊りの構成。最近復活した石川エンサーは200年以上前から存在していた。石川のエイサーの特徴とも言える鉦打ちは戦前には,具志川やコザなどもっと多くの地域でも見られたとか
●うるま市平敷屋(東)青年会(左)と平安名青年会(中・右)。僧侶のようなクンジ衣装は,伝統のスタイルにこだわりつづけて継承され続けた
まあ,今回,とりあえずエイサーコンクールがなかったらどうなったのだろうかということを自分なりに少し推測したわけですけれども,「歴史に‘もしも’はない」というのはその通りだとも思います。
聞いた話ですが,戦前の質素なエイサーは今以上に腰をグッと落として力強く足を頭上近くまで振り上げるなど,空手等のキビキビとした手足裁きが迫真だったそうな。出で立ちは質素だけれど,その分,現在の青年会エイサーに勝るとも劣らない技芸力を醸し出していたと聞いたことがあります。
つまり,旧盆エイサーにはもともとから見る人を惹きつける迫力なり,魅力は十分備わっていたということですね。だとすれば,古来芸能に堪能だった沖縄の人々が「一堂に各地のエイサーを集めてみよう」とか「芸能の技の素晴らしさを競い合おう(※)」とか遅かれ早かれ思いつかないはずがないし,「エイサーにいろいろな趣向を織り交ぜてみよう」と考えないはずがない。
沖縄全島エイサーコンクール及び,それを経てのエイサーの変遷は起こるべくして起こったことなのかもしれないですね。
●浜比嘉島の比嘉エイサー。パーランクー(左)と手踊り(右)。こちらのエイサーも戦前よりずっと以前からのスタイル。比嘉エイサーは,古いスタイルを継承する他の団体が概して質素なのに対して,写真のような組み踊りのサムレーのような衣装で派手な感じ
●屋慶名青年会。太鼓(左)とハントーカタミヤー(右)。ここはイベントのときだけ大太鼓を使う。すでに戦前のうちに比嘉エイサーのスタイルを導入していたとか
これから将来,沖縄のエイサーはどうなっていくのかは全くわかりませんが,たとえ踊りの型やビジュアルが変化しても,エイサーの魂ともいうべき「地域と結びつき旧盆に祖霊を供養する」という本分とともに,沖縄のエイサーは沖縄のエイサーとしてずっと存続していくのでしょう。
2010年10月10日
p.s.
本年,エイサーについて話すべきことはこれで全て話しきったかなといった感じです。Shimaさんの今年の八重瀬町青年エイサー祭りのレポートをはじめ,他の執筆メンバーの方々のレポートや話題が今後いろいろとあるかと思いますので引き続き,このエイサー旅日記をよろしくお願い申し上げます。
今年もどうもありがとうございました。
鎌倉のKI拝
(註)
※とはいえ,結局は伝統に順位付けはナンセンスということで1976年を最後にコンクール形式は廃止になったのはご存知のとおりです。
Posted by まほろば旅日記編集部 at 20:05│Comments(2)
│雑談・ひとりごと
この記事へのコメント
KIさん、おつかれさんで〜す。シロウ@青年会員です。
ゴーサイン出した後で申し訳ありませんが、比嘉パーランクがずっと昔からこんな感じだったのかどうかはやはり確信が持てません。
もう少し、検証してみるのでお待ちください。
Posted by KI旅日記編集部 at 2010年10月12日 12:39
シロウ@青年会員です。
KIさんが書いているとおりでした。
比嘉パーランクはエイサーコンクールが始まったときにはもう今のような服装になっていたらしいです。
戦前ヤケナが比嘉パーランクを取り入れて今みたいになっているそうです。
Posted by KI旅日記編集部 at 2010年10月13日 12:47
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